大型の鳥「エミュー」が10月7日(木)朝、熊本県菊池市の「菊池エミュー観光牧場」より、約20羽逃げ出したと報じられ話題となりました。
エミューは危険?性格は?ダチョウとの違い【菊池エミュー観光牧場】ネット上では「エミュー大脱走」というワードが流行し、同時に「エミュー戦争」というワードも急上昇しました。
「エミュー戦争」とは一体なんでしょうか。
この記事では、かつて大型の鳥「エミュー」と人間の間で巻き起こった「エミュー戦争」についてまとめています。
目次
エミューとは、オーストラリアに生息している大型の鳥です。
羽は退化しており、いわゆる「飛べない鳥」です。
その代わり、足腰が発達し、時速50kmほどのスピードで走ることができます。
走る以外にも、泳ぐこともできる器用な鳥です。
雑食性であり、植物の種子や果実、花や草などのほか、昆虫も食べます。
現存する鳥の中で、世界で1番大きい鳥である「ダチョウ」に次いで、世界で2番目に大きな鳥となります。
エミューの体高さは約1.6m〜2.0mで、体重は大きい個体だと約60kgにもなります。
主に草原や、サバンナなどに住んでいるため、寒暖差に強く丈夫な鳥とされています。
鳥綱ヒクイドリ目ヒクイドリ科エミュー属に分類。(ヒクリドリ目ではなく、ダチョウ目とする説もあり)
ヒクイドリといえば、気性が荒い面を持ち、時には鋭い鉤爪で人間や犬などを殺傷してしまうという「世界一危険な鳥」といわれていますね。
ヒクイドリの親戚ということは、エミューも気性が荒いのでしょうか?
実はそんなことはなく、人懐っこく大人しい性格とされています。
しかし、高い音や大きな音が苦手であり、驚いてしまうとパニックに陥り、勢いよく走り出してしまう面があります。
また、犬や猫といった動物に対しては非常に警戒心が強く、その発達した脚で蹴り上げてしまうことも。
大人しいとはいえ、身体が非常に大きいので不用意に近づかないほうが得策です。
エミューはオーストラリアに生息しています。
オーストラリアといえば「カンガルー」が有名で、オーストラリアの国章に選ばれています。
実はエミューも選ばれており、カンガルーと共に国章に描かれています。
タスマニアを除く、オーストラリア全土の広い範囲に生息していること、また、後ろ向きには歩けないため「前進しかしない鳥」という理由から選ばれたそうですよ。
エミューは雑食性であり、主に植物を好みます。
植物なら、そこら辺に生えている、雑草も大好きです。
大食漢といわれ、一説には1日約6kgの餌を食べるそうです。
その食性から、場所によっては次第に「農地を荒らす害鳥」として見られるようになります。
これが後に起こる「エミュー戦争」の理由となってしまいます。
エミュー戦争が起きたのは1932年、日本では昭和7年となります。
第10回夏季オリンピック、ロサンゼルス大会が開催された年ですね。
その年の11月2日〜同年12月10日まで人間とエミューの争いは続きました。
エミュー戦争が起きた場所は、西オーストラリア州にあるキャンピオン地区です。
グーグルマップによると、以下の場所となります。
第一次世界大戦後、西オーストラリア州では、多くのイギリス人退役兵と、オーストラリア出身の在郷軍人が農耕に従事していました。
主に作られていた作物は「小麦」です。
しかし、1929年に世界恐慌が起こってしまい、麦の価格が下落するというピンチに陥ってしまいます。
それを受けて、当時の農業大臣が農家に対して補助金援助をするという約束をし、小麦の増収を奨励するのですが、残念ながら、この補助金は支払われることはありませんでした。
麦の価格は下落し続け、1932年10月までに事態は深刻さを増します。
各農家はその年の小麦の収穫を準備しながらも、出荷を拒否すると申し出ていました。
そんな時に、繁殖期を迎えた膨大な数のエミューが農耕地に到来したのです。
元々、西オーストラリア州キャンピオン地区には膨大な数のエミューが生息していました。
農耕地に到来したその数は、なんと2万羽にもなるそうです。
エミューは雑食性で、植物を好みます。彼らにとっては、農耕地は高級レストランも同然でした。
その年の収穫物を食い尽くされ、休耕に追い込まれる農地が続出します。
また、エミューは身体も大きく脚力が発達していたため、農耕地を囲う柵も壊してしまいます。
壊れた柵の隙間から、うさぎが侵入し、さらなる被害が起こる可能性も出てきました。
困り果てた農家は、政府に対策を要求します。
本来なら、被害を受けた分の賠償金や、税の優遇を農業大臣に相談するところでしょう。
しかし、前述の補助金援助の約束が反故にされていたので、農家は農業大臣をすでに信用していませんでした。
そのため、政府に直接要求をしたのです。
政府は、エミューを害鳥であり駆除対象としました。
そして、機関銃で武装したオーストラリア陸軍砲兵隊を招集したのです。
エミューを駆除するために、大規模な作戦が実施されることが決定しました。
この駆除作戦は失敗に終わったといわれています。
大規模な作戦が実施されたにも関わらず、なぜでしょうか。
エミューの駆除作戦は非常にシンプルだったそうです。彼らは、農作物を求めて大群で押し寄せてきます。
押し寄せてくるエミューの群れを待ち伏せし「機関銃で一網打尽にする」というものでした。
軍は、この作戦は大した労力もかからず、人間側の勝利で終わるだろうと確信していたことでしょう。
11月2日、軍はキャンピオン地区に入ると、早速50羽ほどのエミューの群れを発見します。
この時、エミューの群れは機関銃の射程圏外にいました。
そこで射程範囲内に誘導しようと、軍はエミューを追い立てますが、驚いたエミューはすぐに散り散りとなって、一目散に逃げていってしまいました。
エミューは非常に賢く、機関銃を持った人間を確認すると、すぐに走り出して射程圏外へ逃げてしまいます。
その後、数回の射撃の末、なんとか数十頭を仕留めたそうです。
11月4日、1000頭以上のエミューの群れが向かっているという情報を得た軍は、エミューから機関銃を持った人間が見えないようにし、群れを待ち伏せすることにしました。
群れを十分に引き寄せ、至近距離に近づいてから射撃を開始。
しかし、1000頭以上に対し、わずか12頭を仕留めるに留まってしまいます。
更に、機関銃が作動不良で動かなくなってしまいました。
その隙に、エミューの群れは散り散りになり、その日は姿を見せなかったそうです。
あまりにもエミューの走るスピードが速く、すぐに散り散りになって逃げ回るため、駆除作戦はなかなか成果が上がりませんでした。
そこで軍は、トラックの荷台に機関銃を設置し、エミューと並走しながら射撃する作戦を試みます。
しかし、エミューの群れはトラックを確認すると、やはり一目散に逃げてしまい、散り散りとなってしまいます。
それでいて、機関銃の射程圏外になると走ることをやめ、振り返ってじっとこちらの様子を伺うのです。
トラックも、負けじとエミューを追いかけますが、道が劣悪でトラックがガタガタと揺れるため、うまく発砲できません。
この日は結局、とうとう1頭も仕留めることができませんでした。
エミューと人間の攻防は、1932年11月2日〜12月10日まで、約1ヶ月もの間続きました。
この作戦で使用された弾薬の総数は「9860発」にもなります。
2万頭いたといわれるエミューは、そのうち「986頭」が駆除されました。
つまり、エミュー1頭に対して10発もの弾薬が使用された計算となり、そのくせ駆除率はたったの約5%……。
この作戦は国費の浪費でしかなく、あまりにも馬鹿げていると、国民から痛烈に批判されたそうです。
この作戦は、メディアによって「エミュー戦争」と揶揄されるようになりました。
そして、1932年12月までにはその年の流行語となり、イギリスにまで到達したそうです。